風の狩人


第2楽章 風の軌跡

5 同志


家は闇に包まれていた。
「何て事だ……!」
結城は慌てて車から降りると、闇を浄化しようと心に念じた。
「龍一……」
闇は淀み、渦巻き、家全体を覆っていた。中にいる龍一は何を思っているのか? 結城は光のタクトを右手に握り、躊躇せず力を放った。強烈な稲妻が闇に炸裂し、目も眩む閃光に包まれて、闇は粉々に散った。そして、分裂した小さな闇も、やわらかく降り注ぐ光の粒子に吸収されて行く……。ところが……。裂けた闇の中に、更なる漆黒の闇が出現した。
「バカな……!」
結城は再び高くタクトを掲げた。
「もう一度」
結城は、静かにタクトを回し、負のエネルギーを絡め取る。それは、ずっと高い空に昇り、天に溶けて行った……。
「龍一!」
結城は家の中に入ると唖然とした。部屋のあちらこちらに闇の風の残骸が浮遊していたのだ。
「何だ? これは……」
結城は何十もの闇を、その忌まわしい記憶を浄化しつつ、階段を駆け上がった。

「龍一!」
闇の中に蟠る影……。周囲には、負のエネルギーが満ちていた。過去が闇を呼び、幾層も重なって折りのように見えた。その中央に龍一がいた。その顔は青ざめて生気がなかった。
「龍一……!」
呼び掛けても反応がなく、白い肌は、まるで人形のように見えた。慌てて近づこうとする結城を闇が拒んだ。結城は慎重にそれらを浄化すると、龍一に触れた。ちゃんと呼吸をしていた。
「龍一! 大丈夫か?」
肩を揺すった。が、返事がない。
「龍一」
更に強く心に呼び掛ける。と、ようやく彼は薄く目を開けた。

「よかった。無事だったんだね」
結城は安堵して、その顔を見た。
「先生……?」
龍一はぼんやりと辺りを見回し、悲鳴を上げた。
「風が! 先生! 闇の風がここに……!」
「ああ。でも、大丈夫。すべて無に還したからね。だから、もう……」
しかし、龍一は、彼の言葉を遮って叫んだ。
「先生! 後ろ……!」
「え…?」
結城が振り向くと、そこに闇があった。それらは、背後のドアから、窓や階下から無数に近づいて来るのだ。

「これは……」
(まさか? 浅倉が……!)
一瞬の緊迫。だが、周囲に人の気配はない。その間にも、小さな闇の塊は生まれ、浮遊し、増殖を繰り返していた。結城は気を込め、光のタクトで一蹴した。微弱な闇は光に溶けて空気となった。が、小さな闇の風は次々と現れる。それらはまるで生き物のように部屋の中を飛び回り、不穏な記憶の断片を撒き散らした。
「先生……!」
龍一が顔を伏せ、彼にしがみついた。
「ウッ……!」
結城は思わず、苦痛に表情を歪めた。先程負った傷が刺激されたためだった。

「先生?」
龍一が、驚いてその顔を見上げる。
「どうしたんですか? 先生? 先生!」
龍一ははっとして、しがみついた手を放し、逆に倒れ込んだ結城の体を支えた。そして、初めて、彼が負傷している事に気づいた。
「先生、ケガを……!」
心配そうな龍一に、結城は苦痛に耐えて軽く手を振る。
「大した事じゃない。それより、早くあれを何とかしなければ……」
闇の風はどんどん増えて周囲を覆った。結城は、光の風を呼んでタクトを振るが、払っても払っても闇は次々と現れ、彼らを嘲笑うように渦巻いている。
(一体、どういう事なんだ? これは……)
きりがなかった。まるで、尽きる事のない魔法みたいに闇の風は湧いて来るのだ。

(このままでは……)
左手を動かそうとして、結城は表情を歪めた。神経に突き刺さる。痛みが拍動していた。フッと意識が途切れそうになる。結城は、気力を振り絞って瞬きした。そして、妙な事に気づいた。風は、ある周期を持って流れている。しかも、そのパワーはまちまちでバランスを欠いていた。
(浅倉なら、こんなやり方はしない。だとしたら……? これは……まさか?)
結城は、自分の腕にしがみついている少年を見た。彼は怯えた表情をしていたが、瞳は漆黒に燃えていた。
(まさか……龍一、君が……?)
「ウウッ……!」
突然、左肩に激痛が走った。僅か一瞬の隙を突いて、闇が喰らいついて来たのだ。結城はタクトを突き出すと光をクラッシュさせた。

「先生……!」
龍一が泣きそうな顔で言った。結城の肩から白い煙のような靄が上がっている。
「大丈夫だ……」
結城は言ったが、意識が朦朧とし、タクトの光が揺らめいた。
「先生!」
それを見て、咄嗟に龍一が手を添えた。光が、風が同調し、再びタクトに光が宿る。瞬間、少年の目に光が閃いた。
「龍一……」
光の風が脈打っている。すかさず龍一が添えた手と共に、タクトを大きく旋回させた。すると、強烈な光が周囲を包み、闇は消えた。ただ、蛍光灯の白い光だけが静かに部屋の中を満たしている。

「先生……」
少年が泣きそうな顔でその顔を見上げた。結城は頷き、微笑する。そして、穏やかに言った。
「龍一……君は、目覚めたんだね」
「え?」
何の事かわからずに、龍一は彼を見つめた。すると、結城がそっと少年の肩に手を置いて言った。
「闇の風を呼んだのは君だったんだ。君はもう、風を呼ぶ事が出来……!」
激痛に顔を歪める結城。思わず結城を支える龍一。見ると、濃紺のスーツに血が滲んでいた。

「先生! しっかりして! 先生……!」
「……大丈夫だよ。少し疲れたんだ。眠ればすぐによくなるから……」
目を閉じたまま結城が言った。
「でも……」
龍一は、そっと彼を椅子に座らせ、上着を脱がせた。ワイシャツは血に染まり、傷や打撲の痕がハッキリとうかがえた。
「こんなひどい怪我をして……救急車を……!」
慌てて行こうとする龍一の手を、結城が掴んで止めた。
「大丈夫だよ。すぐに治る……」
結城はまだ、左肩を押さえ、苦しそうにしていたが、はっきりと彼を見ていた。龍一は迷ったものの、取り合えず、部屋にあった救急箱を持って来ると、傷を消毒し、ガーゼを当てた。

「君、慣れてるね。さすがに医者になりたいだけの事はある」
「ええ。応急処置は習ったんです。でも、一度、ちゃんと受診した方がいいですよ。傷が化膿したら大変ですから。それに、もしかしたら、骨に罅が入ってるかも……?」
龍一が不安そうに言った。
「わかった。明日、病院に行くよ。今夜はありがとう」
「はい」
「それから、その、悪かったね。君を無理に長野へ帰そうとしたりして……ただ、僕は、君を危険な目に合わせたくなかったんだ。僕の戦いに巻き込みたくなかった……。でも、それは、僕の驕りだったみたいだね。本当なら、僕が君を守ってやらなければならなかったのに、逆に助けてもらうなんて……。ありがとう。君がいてくれてよかったよ。本当に。君はもう、立派な風の狩人だよ。だから、もし、君がよければ……」
「それって、ここにいてもいいって事ですか?」
龍一が目を輝かせて訊いた。結城も微笑して頷いた。
「そうだ。僕達は同志なんだ」
と、結城が手を差し出す。と、龍一も頷き、しっかりとその手を握り返した。


翌日、結城は定時に学校へ出掛けた。龍一は、休んで病院へ行くようにと勧めたが、彼は、一晩寝たら大分よくなったし、病院は帰りに寄れるからと言って家を出たのだ。結城は、どうしても気になる事を確かめておきたかった。

そして、朝、2年生の教室の廊下で、平河を呼び止めた。
「君に訊きたい事があるんだ。ちょっといっしょに来てくれないか?」
「はい」
そして、二人は音楽準備室に入って行った。
「わかってるだろう? 昨夜の事なんだけどね」
準備室に入ると、すぐに結城が切り出した。
「結城先生、大丈夫なんですか? その、お怪我は……?」
問われて彼は微笑した。
「そうだね。まだ、左手を動かすとひどく痛むんだ。これから病院へ行こうと思ってるんだけど。骨の一つくらい折れてるかもしれないな」
「治療費は、おれ達が何とかします。だから、昨夜の事は黙っていてくれませんか?」
「どうやって払うつもり? まさか、カツアゲでもしようってんじゃないだろうね」
皮肉に笑う結城に対し、平河は慌てて首を横に振った。

結城はわざと窓際に寄り、外の景色を眺めて間をおいた。
「そうだね。君も将来がある大切な生徒の一人だ。考慮はしよう」
結城は平河の方を向いて言った。
「ほんとですか?」
平河は顔を上げた。

「ただし、条件がある」
「条件?」
「君がバイクの後ろに乗せていた少女の事を教えてくれないか?」
「それは……」
平河は逡巡した。

「あの子も、まだ学生だろ? どこの高校だ? 名前は?」
問われて、彼は少し考えるように言った。
「名前は……桑原アキラ。姫百合中学の1年生です」
「中1? でも、昨夜の連中もあの子に従っていたようだけど、どんな関係なの?」
「この界隈の族を仕切ってるんです」
その返答を聞いて結城は驚いた。だが、もしそのアキラという娘が闇の風を使えるのだとしたら、それも可能かもしれない。
「今度、その桑原さんって子に会わせてくれないかな?」
「それは……。彼女に訊いてみないと……」
平河は口籠もった。
「そうだね。もし彼女が承知してくれたらで構わないから……」
「わかりました」
その時、予鈴のベルが鳴った。
「話はそれだけだ。もう、行きなさい。授業が始まる」
「はい」
そう言うと平河はドアを開けた。が、もう一度振り返って結城に訊いた。
「あの、おれからも質問いいですか?」
「ああ」
「来年からここに引っ越して来る中等部って、2年生に編入するって可能なんですか?」
「ああ、確か編入試験もある筈だよ。事務室に書類があるんじゃないかな?」
意外な質問だと結城は思った。
「ありがとうございました。じゃあ、早速放課後にでも寄ってみます」
そう言うと彼は廊下へ出て行った。
「編入試験か。兄弟か誰かが希望しているのかな?」
そんな事を呟きながら、結城も授業の支度をして廊下に出た。


夕方。龍一は玄関の掃き掃除をしていた。
「おーい! 龍一」
道の向こうから彼を呼ぶ声がした。見ると、健悟がこちらに向かって駆けて来て、手を振っている。
「健悟」
龍一はうれしそうに門を開けた。
「へえ。似合ってるじゃない? 専業主夫」
その声に、角で立ち話をしていた主婦達がちらと振り向いてうさんくさそうに見た。
「おい。変なこと言うなよ。先生が誤解されるじゃないか」
龍一は、慌てて健悟を家の中へ引っ張り込んだ。

「先生は戻ってんの?」
健悟が訊くと、龍一が首を横に振った。二人は、レッスン室のソファーに腰を下ろした。
「ところで、結城先生、怪我したんだって?」
「うん」
「そうか。やっぱりな。今日、途中で早退したらしいよ。急に具合悪くなったとかで」
「え?」
それを聞いた龍一の表情が暗くなる。
「だから、今日は休んで医者に行った方がいいって、あれ程ぼくが言ったのに……」
龍一は不安を隠せない。
「何だよ。そんなに先生の事が心配? おれだって、おまえの事が心配だから来てやったんだぜ」
その言葉に、龍一は驚いて健悟を見た。
「あ、うん。ありがとう」
そう言う龍一を健悟はまじまじと見つめる。

「あのさ、おまえ、先生の事も心配だろうけど、少しは自分の事も心配しろよ」
「え?」
「これから先、どうするつもりなんだよ? 早く学校に来いよ。みんな、おまえの事、心配してんだぜ」
「……誰も、ぼくの事なんか心配してないよ。みんな、自分の事で精一杯なんだ」
否定する龍一を、健悟は正面から見据えた。
「そんな事ないよ。あの事件以来、みんな、おまえの事見直してんだぜ。おまえは、我が校のヒーローだって」
「ヒーロー?」
龍一がおずおずと健悟を見つめる。
「そうさ。おまえは、炎の中から赤ん坊を救ったんだぜ」

しかし、龍一は俯いて言った。
「そんなの……。あれは成り行きだったんだよ。あの時、ぼくは自分の事しか考えてなかった。自分の家族の事しか……テレビが報じていたような立派な事なんか何一つしていない。ぼくは、ただ、お父さんに渡された赤ん坊を連れて、たまたま逃げただけなんだ。ぼくは、自分が死ぬのが恐かった。だから……」
泣きそうな顔の龍一の肩を抱いて、健悟は励ました。
「それでも立派だよ。自分の命と、ついでに赤ん坊の命を守ったんだから」
「うん……」
「だから、出て来いよ。な? 今なら、きっとうまく行く。頼む。昔のおまえに戻ってくれ。明るかった小学生の頃、あの事故が起きる前に……」
「健悟……」
時の砂時計がくるくると回り、過去を、未来を、そして今を覗かせていた。

が、やがて。
「出来ないよ」
龍一が言った。
「もう、元に戻ることなんか出来ない。父さんと母さんが戻って来ないように……進んでしまった時は、二度と巻き戻す事なんて出来ないんだ」
「でも、未来を変える事は出来るだろ?」
「そうだね。ぼくは、ぼくの新しい未来を作る。先生と二人で……」
それを聞いて、健悟は複雑な顔をした。
「それって、やっぱり専業主夫を目指すって事?」
健悟があまりに真面目に言うので、龍一は吹き出した。

「何でそうなるのさ? 確かに、ぼく、結城先生の事は好きだけど」
「ほら、やっぱりそうなんじゃないか。全く。許せないね。おれという者がありながら」
「いつ、君とそういう仲になったんだよ?」
龍一が突っ込む。
「ええっ? 忘れちゃうなんてひどいよ。思い起こせば幼稚園の時。大きな桜の木の下で愛を誓ったじゃないか」
「そんな事あったっけ?」
「そんなぁ。龍ちゃんたらひどーい。健ちゃん泣いちゃうから。しくしく」
龍一が笑う。と、それを見て健悟も笑い出した。
「はは。んな事ある訳ねーか」
「ま、ね」
健悟はいつもそうだった。硬くなりがちな龍一の心をやわらかくほぐしてくれる。それが健悟のやさしさだと、龍一は知っていた。

「ねえ、コーヒー入れようか?」
龍一が立った。
「おい。いいのかよ? よその家で」
「好きに使っていいって。先生言ってたから……」
そうして、龍一は台所に行くとコーヒーメーカーをセットした。そして、その琥珀色の液体を見つめながら、ふと闇の風の事を思った。
(健悟は信じてくれるだろうか? もし、あの事を話したらどうなるだろう?)
龍一は心を決めかねていた。